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伝承の最近のブログ記事

六部伝説

 六十六部というのは、書写した法華経を全国六十六箇所の霊場に一部づつ納めるために諸国の寺社を巡り歩く行脚僧のことである。これを略して六部ともいった。

 

 村田郷には、六分に関して怪奇な伝説がある。その時代は藩政時代であるが、はっきりとは分らない。「宮城県史民族編」には、「正保」の頃と記してある。もっと古く「寛永」の頃という人もある。

 

 村田の旧警察官派出所(現本町駐車場)の裏手あたりに、一軒の宿屋があった。そこへ一人の六部が泊まった。この宿の主人は、客の金包を見て、ふらふらと悪心を起こし六部が寝たところを襲って殺害し、金品を奪ったという、このとき六部のうめき声が、四辺に聞こえたという。

 この六部の友が、六部の行方を探し村田までやって来て、この宿を訪れ、主人に亡くなった六部の絵姿を見せて、このような風態の人が泊まらなかったかと尋ねると、主人はギョッとしたが、何食わぬ顔で知らぬと答えた。主人の挙動に不審を抱いた友は、その晩そこに泊まって様子をうかがった。そのうち、囲炉裏の灰の中から、六部が常に笠に付けていた、六文銭の一つを見つけた。いよいよ六部が殺されたこと疑いなしと、その夜密かに友のために読経をしたら、夜半、夢の中に六部が現れ「自分はここの主人に殺されたのだ。この恨みをきっと晴らす」と言うと、すうっと消えた。友は六部を憐れみ、この宿を去ったが、そのとき、ここの主人に対し、「呪いの法」を結んで立ち去り、のちにこの地を訪れて五輪の塔を建てたという。

 それからはこの宿屋に不幸な事が相次いで起こった、そして主人はじめ、家族も子孫もみな死に絶えてしまった。また、そのあと、ここに住む人は、皆不幸な目に遭い、誰も住む人がいなくなった。そして、夜な夜なこの辺に化物が出るというので、化物屋敷の名がついたという。

 その頃の村田郷の領主は、奥山大学常良であったという。その家経に佐藤求馬之丞信綱という武芸の達者な士が居た。この化物を退治してやろうとし、夜半にここで待ち伏せていた。ところが丑満時に生臭い一陣の風と共に化物がふうっと現れた。信綱は直ちにこれを一刀のもとに切り払えば、ハッシと手応えがあり化物の姿は消えた。おもむろに、ろうそくをつけて見ると、何と、五輪の塔の頭が切られていたという。それから化物はでなくなった。人々は、この武士の武勇に驚嘆した。領主奥山大学は、松島瑞巌寺の高僧、雲居禅師(うんごぜんじ)を招き、六部のための供養をしてもらった。このとき、禅師の書いたが現在も残っている。「偈」というのは「お経の中に、詩の形で仏徳を称えたもの」である。なお、禅師は去るに当り、人々に「この五輪のまつりを、ねんごろにして、六部をよく供養せよ。もし、これを怠ると再び祟りが起こるだろう」と諭して行った。それで、ここの住民は、供養をねんごろにしていたが、年が経つにつれ、それを怠るようになった。するとまた、祟りが出た。ここに屋敷を持つ人に不幸が続き、二代と続いた人がなかった。とうとう空地となった。

 明治の世になると、この土地は村田町に寄付された。町ではここに警察署を建て、昭和の世まで警察署がその地にあった。

 五輪の塔は引続いて元の場所にあった。そして、東裏地区の人達は「蚕神」として信仰したという。大正時代に、この近隣の人々が、この五輪を恐れ、ある夜密かに白鳥神社に持ち運び境内に埋めた。それで、ここには、五輪の額だけ残った。埋められた五輪はどうなったか。昭和27年頃に村田相山運動場の拡張工事があり、このとき神社の境内の一部も整地されたが、このとき五輪のうち三輪が見つかったという。

 時移って、昭和40年頃に、五輪の近傍の人々が、続けざまに5、6人死亡した。人々は、これは五輪の供養を怠った祟りとして、寄付を募り、ここにコンクリートの五輪塔を建て、これに覆いの屋根をかけ、堂とした。そして臨時に祭典を催し、手厚く五輪を祭った。ここは現在、台石の上に五輪の塔があり、高さ1m50cm、その上の堂が約2m、奥行80cmある。この堂の前面に「五輪之霊」の横額がかかり、周囲は常に美しく清掃され、神鈴もあり、また花や線香もあがって神仏混淆の姿をなしている。現在は、本町第一班契約講の人々によって維持管理され、供養されている。

 

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gorin.JPG 雲居禅師の書は、はじめ表装され軸物になっていた。そして本町第一班契約講で順繰りに各戸で、一年間ずつ保管していた。しかしその軸の中味に何が書いてあるのか、恐れて誰も読まなかったという。そのうちに、この軸をお寺にでも保管してもらうということになり、とうとう龍島院で、引き受けることとなった。

 龍島院では、契約講の世話人達と立会いの上、この軸を披見して、この偈を読んだ。そして表装し直しをし、木の箱に納め、龍島院に保管されている。

 

(注)六部についての伝説は、全国各地に民話として残っている。郷土では沼辺の鹿野前にも、菅生の三本木にも、これに似た話が伝わっている。

 共通するのは金品を奪われたり、殺害されたりしたあと、祟りを生じたことである。六部は全国を巡っているので、各地の珍しい話を住民の信仰に結びつけて、言葉巧みに話を聞かせ、当時の人々を魅了させ、これが語り継がれ、話の内容も時代と共に変化したのだろう。

 検索サイトにて「六部殺し伝説」で検索すると、Yahooで57,600件、Googleで20,900件がヒットする。

 

韮神山の朝寝屋敷

 村田町の沼辺地区、韮神山の近くに「朝寝屋敷」と呼ばれるところがあります。毎年7月7日の朝はみんな、お日様が高く上がるまで寝ているのです。どうしてこんな風習があるかというと、むかし今から800年前はこの辺りは戦の戦場になっていたのでした。この戦の後、毎年7月7日の朝には辺り一面にモヤがかかり、その中に侍たちの亡霊が見えると言われました。そしてその姿を見た者には災いが降りかかるというのです。災いを恐れた村人たちはその時を寝て過ぎ越す事にしたのです。それからはこの日ばかりは朝寝をする習慣がつき、いつの間にか「朝寝屋敷」の名がついたのです。

 

奥州の蛇藤伝説

谷山温泉の由来

 むかし、六部(ろくぶ)とよばれる修行者がいて村田辺りにもよく来たんだと。六部というのは全国六十六カ所の霊場を巡り歩く修行をしている人を言うんだ。ある時、一人の六部さんが谷山あたりで体を痛めて歩くのがしんどくなってしまった。岩かげをみつけて体を休め、雨つゆをしのいでおった。そこは今の六角地蔵があるところ。そのときも地蔵さんがいっぱい建っておったが昔はそれは寂しいところだったそうな。六部さんが辺りを眺めると地蔵さんの前の水たまりに小鳥が一羽いて水遊びをしている。その鳥っこはポチャッ、ポチャッと出たり入ったり、出たり入ったり、ずーとしてる。「あの鳥っこ何してるんだべ?」と思ってそこさ行って水たまりさ手ば入れでみだっけ、それはぬるま湯だったんだと。で、その六部さん「この水さ体ば入れだら良くなるんでねぇべが」と思ってそのお湯ば体の傷だのヒザだの腰だのさ浸けてみだれば、たちまち治ったんだと。それから谷山のお湯は「お地蔵様が恵んでくれた薬湯だ」という噂が広まって近郷近在から多くの人が来るようになったんだと。

八竜様の怪童子(沼辺・田辺)

 むかし、沼辺の田辺の「はまいば」に大勢の子供が集まって遊んでおった。そこへどこからともなく一人のの子供があらわれてみんなと遊ぶようになったと。その子は顔は人の子なんだが体は熊の子のようだった。彼は朝早く誰もいないうちから「はまいば」に来ていて夕方遅くまで遊んでから帰った。でも、どこから来るのかもわからんし、何か物を食っているところも見たことがない。そしたら辺りの大人たちは「ありゃ神様の子供じゃ。罰があたるとたいへんじゃからいっしょに遊ぶな」といって子供を連れ帰るようになってしまった。とうとうその子は一人ぼっちになってしまった。するとその子は腰に下げていた袋の中から何かを取り出し、辺り一面にばらまくとぷいっと消えてしまったと。いつもいっしょに遊んでいた子供たちはその子のことが心配になって後で探しにきたんだと。そしたら、八竜様の石段をしょんぼり登っていくあの子の姿が見えた。でもその頃、八竜様と「はまいば」の間は大きな沼だったのでその子がどうやって向こうに行ったのか誰もわからんかった。するとそのとき、八竜様のお宮おの上から白い鳥が一羽、小泉の熊野神社の方へ飛んでいくのが見えた。鳥はそのまま姥ヶ懐の方へ飛んでいった。「やっぱり、あれは神の子だったんだ」とみんな納得したという。それから夏が過ぎて秋になった頃、子供たちがあそんでいたところには麻がわんさかと成った。あのとき子供がばらまいたのは麻の種だったんじゃね。村人はその麻から糸をつくって布を織り生活の足しにするようになった。それから八竜様のお祭りには麻を奉納するようになったんたと。今も小泉の熊野神社から「はまいば」まで御神輿が来るのはこんなお話があるからあるからなんじゃ。

村田町の湧き水スポット

隣町の蔵王町には有名なものだけで5箇所の湧き水スポットがありますが、村田町にも湧き水が湧いている場所が何箇所かあります。

今回はその中から2箇所を紹介します。

沼田の蛇沢伝説

 昔、沼田の蛇沢というところに大蛇が住み着き作物を荒らしたり、人を襲ったりして村人を苦しめていた。途方に暮れているころに一人の修行僧が通りかかった。村人が助けを求めると「我が力及ぶ限りやってみよう」と蛇の住む横穴へいった。修行僧が呪文を唱えると穴の中から蛇が苦しみながら出てきた。その姿は八つの頭をもつ龍だったという。龍は東の空へ逃げたが力尽き、落ちたところが中山の「八龍さま(社)」といわれ、その骸を埋めたところが蛇沢の蛇塚だと言われている。村人を救った修行僧は弘法大師だったという話である。

姥ヶ懐と渡辺綱

 渡辺 綱(わたなべのつなは平安時代中期の武将。嵯峨源氏の源融の子孫で、通称は渡辺源次、正式な名のりは源綱(みなもとのつな))。頼光四天王の筆頭。源頼光が酒呑童子を討伐した後、屋敷で頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ羅生門にも鬼がいて悪さを繰り返しているという話しが伝わった。渡辺 綱は単身で乗りこみ、格闘の末、鬼の右腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした。渡辺 綱は鬼の腕を石の長持ちに隠し、10人の家来を従えて逃げた鬼を探して諸国を探し歩いた。姥ヶ懐についたとき、腕を取り返そうと狙っていた鬼が一計を案じた。鬼は渡辺 綱のおばに化け、京の都で切り落としたという鬼の腕を見せてくれるように頼んだ。腕を見せると、鬼は姿を現し腕を掴むと囲炉裏の自在かぎを伝って上にのぼり天井の煙出しから外に逃げてしまった。渡辺 綱が刀を抜いて追いかけるとあわてた鬼は転んでしまいおき上がるときにそばにあった石に左手をついて立ち上がりそのまま逃げてしまった。その後、姥ヶ懐では渡辺 綱の気持ちを思い、囲炉裏の自在かぎと天井の煙出しをつけなくなったという話しです。また節分の時も「鬼は外」といわなくなったそうな。鬼が逃げるときに手をついたという石は今でも姥ヶ懐に祀られてあります。

小池の由来

 その昔、北小池に美しい清水がこんこんとわき出るところがありました。あるとき、お殿様の娘があるお屋敷の若者と恋におちました。娘は家来の目を盗んでは屋敷を抜け出し若者と逢瀬をかさねていました。娘は若者に会う前に必ず清水に立ち寄り、この水を水鏡として髪と化粧を整えたと言うことです。その清水は後に「恋池」と呼ばれるようになり、それがなまって「小池」になったということです。

花満開「白鳥神社の奥州の蛇藤」

蛇藤伝説で有名な白鳥神社の奥州の蛇藤がほぼ満開となりました。